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新・やっぱりクマが好き!!

新・やっぱりクマが好き!!

少し前のお話 その4

少し前のお話 その4 10月30日(木)

だらだらと続けて申し訳ありません。ようやく今日で完結です。
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自殺は思いとど持ったものの、
しばらくは結構悲観した生活を続けていた。
何だか投げやりや自暴自棄になっていた頃である。
でも、一筋の光明が見え始めた。

ぴろの母乳を飲む量が増えてきたことである。
早く生まれすぎたため全てにおいて未熟な赤ちゃんが未熟児という。
ぴろは1キロに満たなかったため超未熟児という。
そんな超未熟児の子はまだ肺が出来てない場合も多い。
そんなひろが自発呼吸ができるようになった
人工呼吸器を抜く日が来たのである。

ひろも生まれて3ヶ月。
少しずつではあるが1.3キロになったり成長や体内のコードを
抜いたりとかの悪さをしていた。

わたしはひろが産まれてから毎日日記をつけていた。
自分の日記ではなくひろの日記。
将来的にこんなに成長したんだよって渡してあげようと
思っていた日記。それに今日の喜びを綴った。

私の体の中のガンもとりあえずは沈黙したようで
検査の値は下がり始めた。

それは新しい抗がん剤の影響かもしれなかった。
でもまだ副作用で髪は抜けていた。

多い髪を三つ編みにしていたのであまり気付かれる事は
無かったがこのときすでにかなりの量が抜けていたはず。

そして二つ目の副作用が出た。
背中じゅうに一杯の発疹が出た。
赤いにきびのようなものが背中じゅうに出来て。
そのまま病院内の皮膚科に通った。

毎日ステロイドを塗る生活が増えた。
でも検査の結果は良くなっていた。
私の中のガンは少しずつだけどその力を
失っていったのだろうか?

「7月の後半ようやく退院してもいい」って話が出る。
既に入院してから4ヶ月以上がたっていた。

退院できるんだ。
「ということは落ち着いたらまたぴろに母乳やれるんですか?」

「1ヶ月くらいは抗がん剤の影響があるから、それ以降だったらあげてもかまわないよ」

「よかった」

本当に嬉しかった。
再び母に戻れる日が来るのだ。

でも今まで遠目とはいえ毎日会っていたぴろに
会えなくなるのは悲しいことではあったけど・・・。

搾れる時は母乳パックに母乳を搾って入れ、クーラーBOXで運ぶという日々が続くことになった。

だけど鳥取と岡山は片道4時間かかる。
持ってこれたら私の母乳、無理なときは今までとおり貰い乳をすることに。

それだけ聞いて退院した。
約5ヶ月ぶりに歩く外の世界である。

初めて岡山に来た時には自分が思いもよらなかった病気だった。
それがガンであって、転移してて・・・ぴろが未熟児で生まれてきた・・・たったこの5ヶ月なのにもうずいぶん経ったみたいだった。


そして一旦は退院して鳥取にいった。
やっと半年以上ぶりの普通の専業主婦の生活を
してみた。
いつもやってたことなのに何もかもが新鮮だった。

病院ではただ寝てるだけだし、動き回るところは知れてる。
そんな生活を外泊もなく約5ヶ月もいた。
でも久々に友達にも会うことが出来た。
それだけで十分だった。

それで退院後、1週間後に行った病院で検査。
2週間後に結果を聞きに言ってみると・・・

また値が大幅に上昇してるという。

「再発してるんだ」・・・先生が言った。

「そうですか。じゃ、また入院ですよね」

「申し訳ないけどもう一回打とう。それで治しきってしまおう」

あっという間の再入院である。
また抗がん剤を打つ生活が始まった。

今回は産科の部屋じゃないので卑屈になることはなかった。
婦人科の部屋だったから。
周りがおばあちゃんだらけだったってこともある。

またぴろに母乳はやれなくなってしまった。
だけど完全に治してからあげればいいと言う風に私の思想は
かわっていた。

「生きていたら何でもできるから」
そう本当にこれだけである。

今は出来なくても治せばできる。
治さなかったら何も出来ない。
前向きに思っていればいつかは治るはずだから。

だから私は再入院を簡単に受け入れられたのである。
正直落ちるとこまで落ちたので開き直っただけかも知れない。

1ヶ月抗がん剤をマジメにうけた。
結局打った抗がん剤の量は60本以上になる。
再び髪も抜けたし、相変わらずの発疹も出た。
退院してる時は全部落ち着いていた症状だ。

抗がん剤を打たなくなったらまた髪は生えてくるし、
発疹も治るから。
と自分に言い聞かせて治療を続けた。

私が前向きなことを感じ取ったかのように
ぴろも2キロになり保育器から出て来た。
簡易ベッドで自分で母乳を飲む練習を始めたと言う。

退院前に再び再発していたがもう迷いは無かった
抗がん剤をもう2週間だけ打った。

それがガンに致命的になったのかわからない。
でも検査の値は0に近くなった。

「これで後は通院で様子を見ましょう」

季節は春から既に秋も終りへと近づいていた。
ようやく本当の退院が出来た。

あと1ヵ月後にはぴろが帰ってくる。
再発さえしなければ母乳がやれる。

賭けのように私は祈った。
そして通院して最初の検査の結果を聞きに行った日。

「大丈夫、子宮ガンもHCGの値の検査の結果も全部正常値だよ」

それから2週間、1ヶ月といったが私は再発しなかった。
ついにガンと縁が切れたのである。
そして今は半年ごとに子宮ガン検査をしている。
ついに先日再発なく4年目を迎えたのである。

この4年半のうちには更にピロの障害がわかって
一喜一憂したりと色々なことがあった。

でも私はこうやって今生きていて自分の過去を振り返りつつ
日記にこうやって書いている。

もし悲観してあの時身を投げてしまったら今ここにいることさえもないし、こういう幸せな今を生きていることも無かっただろう。

平凡でも何でも今をこうして生きていられるのが
どんなに幸せなことかと私は思う。

今年友達をガンで亡くした時は本当に他人事に思えなかった。
だけど私は彼女の分も長生きしたいと思っている。

暗い話に延々付き合っていただきまして
本当にありがとうございました。

私のかかった胞状奇胎と言う病気は全妊娠の350人に1人がかかる病気らしいです。古くは美智子妃殿下もかかった病気なんです。

本来なら妊娠3ヶ月にもなれば産婦人科医はわかる病気です。
その後、処置をしていればここまでひどくなることはありませんし、ましてや私のようになる人はまれです。私と同じ絨毛ガンになる人は全体の1~2%くらいです。

私は最初の医療ミスをした病院が胞状奇胎を
見逃しておいてくれたために皮肉にもぴろが存命できました。
(普通この病気がわかったら即そうは手術をされてしまうため)

今となっては自分をここまで追い込んでくれたけど
ぴろにほぼ影響を与えずにいてくれたガンに感謝せざるを得ません。

ぴろはガンと栄養を取り合い大きくなっていたのですから。
普通ならまずありえない話なんですけどね(笑)

でもこうして今ナンダカンダいいながらも生きてます。
たまにはお酒も飲めてます。
こうして大事な楽天の方とも知り合うことが出来ました。
私は今、幸せです。

読んでくれてありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。




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